【知っておきたい和菓子の歴史】

私たち日本人に馴染みの深い「和菓子」の歴史を、簡単にご紹介したいと思います。

  1. 和菓子は、どこからやってきた?
  2. 水菓子(みずがし)って、なに?
  3. 唐菓子(とうがし・からくだもの))の伝来
  4. 禅宗と中国の食文化の伝来
  5. 南蛮菓子の伝来
  6. 茶会から見る和菓子の原型
  7. 洋菓子との出会い
  8. おわりに

和菓子は、どこからやってきた?

日本での和菓子のはじまりは、縄文時代にドングリや木の実などを灰汁抜きし、それを食べていたようです。現在は、その形から「縄文クッキー」と言われています。ただ、材料を見てわかるように、クッキーと言いながらも、現代のような「おやつ」として食べていたのかどうかはわかっていませんが、食材を加工する技術が当時にも存在していたことがうかがえます。

和菓子の歴史は、縄文時代までさかのぼるとされています。木の実を粉砕して、水でアクを抜き丸めたもの。これが団子の始まりといわれています。

農林水産省HPより引用
ララ

「お菓子」というより、生きるための食生活の一部だったのかもしれませんね。

縄文時代後期になると日本に稲作が伝わり、弥生時代になると和菓子の原型となる餅や団子が作られていたことがわかっています。

水菓子(みずがし)って、なに?

「水菓子」とは、果物のことを表します。現在では「水菓子」という表現を使うことが少なくなってきました。「水菓子」と聞いても、「水?菓子?何それ??」と思う方が大半なのではないでしょうか。。

もとは、木の実や木や草に実をつける果物のことを「菓子」と表現していたそうです。しかし、その後、加工を施した「菓子」が発達してからは、それぞれを区別するために果物のことを「水菓子」と言うようになったそうです。

唐菓子(とうがし・からくだもの))の伝来

平安時代になると中国からの文化や仏教の伝来により、様々な文化や文物が日本に伝わりました。その一つが唐菓子(とうがし・からくだもの)と言われる嗜好品でした。

遣唐使が持ち帰ってきた唐菓子は、米やうるち米、麦などをこねたもの、または大豆や小麦に塩を入れて揚げたものがありました。それらの唐菓子が形や味などを変えて、煎餅や団子など庶民の食べ物として広まり、現代に伝わっているのです。

ララ

煎餅や団子は、そんなに古くから親しまれているんですね。

禅宗と中国の食文化の伝来

鎌倉時代には禅宗が喫茶の習慣と、点心の習慣を広めていきました。

点心は、食事と食事の合間に摂る軽い食事として普及していきました。また、その際に食べるものも点心と言うようになりました。当時よく食べられていた点心の中に「羊羹」と「饅頭」があり、これが後に和菓子の原型となったと言われています。

しかし、この当時の「羊羹」は現在のような寒天と小豆を使った甘いものではなく、中国では羊の肉を入れた汁物だったそうです。獣の肉を食す習慣がなかった日本では、豆や穀類などを使って汁物としていましたが、それが邪気を祓うと言われていた「小豆」を使うようになったと考えられています。

「饅頭」も現代のように甘い食べ物ではなく、肉や野菜を皮で包み蒸したものだったそうです。その後、砂糖の普及とともに甘い「饅頭」になったそうです。

ララ

甘くない「羊羹」と「饅頭」は、どんな感じなのかな??

南蛮菓子の伝来

戦国時代から安土桃山時代において、ポルトガル、スペインからのキリスト教の宣教師や貿易商人たちが、新しい食文化を日本へと運んできました。そのひとつが「南蛮菓子」と言われる甘いお菓子でした。特徴としては、当時の日本では貴重だった砂糖と、あまり食べることがなかった卵が使われていることでした。

なかでも有名なのは、カステラ、金平糖(こんぺいとう)です。また、有平糖(あるへいとう)、ボーロなども南蛮菓子に含まれます。

これらは後に、和菓子に大きな影響を与えた食べ物となったのです。

茶会から見る和菓子の原型

織田信長が茶会にて「菓子」として食していたのは、焼栗、打栗、焼餅、昆布など、素朴なものだったようです。その後、江戸時代の初期には京都で「京菓子」作りが盛んとなり、その「菓子」には高級品であった白砂糖が使われていたそうです。「上菓子」と呼ばれ、大名や公家、裕福な商人たちが贈答や茶会にて使用したそうです。その後、江戸へと渡り、日本全国へと広まったそうです。さらに「上菓子」だけではなく、神社仏閣や宿場などで茶店が餅や団子、饅頭などの商いをするようになり、庶民にもこのような和菓子が広まっていきました。

さらにその後、八代将軍の徳川吉宗が砂糖の製造を推奨し、高級な甘味料であった砂糖が庶民にも手が届くものとなりました。また、吉宗は「花見」の習慣を作った人物としても知られています。江戸の隅田川沿いに桜を植え、花見の宴を庶民に与えたと言われています。そういった庶民の娯楽の中で「桜餅」や「花見団子」が広まり後世に伝わったと言われています。

洋菓子との出会い

明治時代になると、江戸時代の鎖国が解かれ、西洋文化が日本へと入ってきました。バターやミルクなどを使った洋菓子が広まり、西洋の菓子と区別するために「和菓子」と言われるようになったのです。洋菓子は、植物性の食事に慣れていた日本人にはすぐに浸透しなかったものの、徐々に国内でも生産されるようになりました。

大正時代になると、ビスケット、ミルクキャラメル、チョコレートなどが作られるようになりました。

おわりに

いかがでしたか?今回は「知っておきたい和菓子の歴史」についてご紹介しました。

昨今では老舗和菓子店でもバレンタインデー、クリスマスなどのイベントに合わせた和洋折衷の和菓子を提供するようになったり、洋菓子の材料を使った「和菓子」が作られるようになったりと、「和菓子」も日々変化を続けています。

もちろん、昔ながらの製法や材料にこだわり、ひとつひとつ手作業で製造している和菓子店もあります。先人たちが築いてきた「和菓子」の歴史を知ることで、また「和菓子」がいつもと違う味わいに感じられるのではないでしょうか。

ララ

なるほどねぇ~。さて、歴史を学んだところで、今日も「和菓子」を食べよう♪

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